2018年6月、福岡市で発生した痛ましいIT講師殺害事件は、インターネット上での一方的な思い込みが現実の悲劇へと発展した衝撃的な事件として、多くの人々に記憶されています。本記事では、この事件の概要から犯行の詳細な流れ、そして裁判所が下した判決とその理由について、裁判所の判断に基づき深く掘り下げていきます。

事件の概要ーインターネット上の妄想が招いた悲劇ー

 この事件は、IT講師であるA氏(当時41歳)が、福岡市内の施設「C」において殺害された痛ましい事件です。犯人である被告人は、A氏を含む複数の人物がインターネット上で「集団リンチ」を行っているという一方的な思い込みを募らせ、最終的にA氏を殺害することを決意しました。

 裁判所は、この被告人に対し、懲役18年の実刑判決を下しています。この判決に至るまでの過程には、被告人が抱えていた自閉スペクトラム症の有無と、それによる責任能力の有無が重要な争点となりました。

犯行の背景と動機

 事件の始まりは、被告人がインターネット上で行っていた特異な行動にあります。被告人は、A氏を含む複数の人物が「集団リンチ」と呼ばれる、一般の個人を攻撃する内容の投稿をしていると信じ込んでいました。これに対し、被告人自身も「低能」「死ね」といった罵倒の投稿を大量に繰り返していました。

 この一方的な罵倒行為はエスカレートし、ウェブサイト運営会社からアカウント停止措置を受けても、被告人は次々と新規アカウントを取得して投稿を続けていました。

 さらに状況を悪化させたのは、被告人自身の認識の変化です。次第に、被告人は自分自身もA氏らから「集団リンチ」を受けていると考えるようになり、この「集団リンチ」を止める唯一の方法は、それを行っている者を殺害することだという歪んだ結論に至りました。

 このような一方的かつ身勝手な動機は、裁判所において「理不尽」と断じられています。被害者のA氏は、被告人がインターネット上で他者を罵倒するなどの迷惑行為を行っていたことをウェブサイト運営会社に通報したに過ぎず、被告人が抱いた殺意は、客観的に見て全く根拠のないものでした。

犯行までの詳細な流れ

 被告人は、A氏が福岡市内でインターネット関連の勉強会を開催するために来福することを知り、この機会にA氏を殺害することを決意しました。

 殺害を決意した被告人は、犯行を綿密に計画し、準備を進めました。犯行現場の下見を行い、さらには犯行の予行演習まで重ねていたとされています。

 そして、2018年6月24日午後7時4分頃、被告人は福岡市内のスタートアップ支援施設「C」に侵入しました。被告人は、この時点で刃体の長さ約16.5センチメートルにも及ぶレンジャーナイフを携帯していました。

 施設に侵入後、被告人は直ちに犯行に及んだわけではありませんでした。むしろ、被害者A氏が参加していた勉強会の状況を冷静にうかがい、殺害の機会を待っていました。

 午後7時59分頃、施設1階の男子トイレとその付近において、被告人はA氏に対し、殺意をもって襲いかかりました。被告人は、所持していたレンジャーナイフで、A氏の頸部、胸部、背部など、実に30か所以上を多数回突き刺すという執拗な攻撃を加えました。

 被害者A氏は、この攻撃によって頸・胸部刺創に伴う心臓刺創や頸動脈切断を負い、同日午後8時40分頃、搬送先の病院で失血により死亡しました。

 この犯行は、裁判所によって「非常に強固な殺意に基づく計画性の高い犯行」と評価されており、その悪質性が強く指摘されています。逃げようとする被害者を追いかけてナイフで突き刺すなど、その執拗な攻撃態様は、被告人の強固な殺意を裏付けるものとされました。

争点となった責任能力ー自閉スペクトラム症の影響はどこまでかー

 本事件の裁判において、最も重要な争点の一つとなったのが、被告人の責任能力の有無でした。

 検察官と弁護人の間でで共通していたのは、被告人が犯行当時、中等度の自閉スペクトラム症を有していたという点です。しかし、この精神特性が犯行にどれほど影響を与えたかについては、両者の主張が対立しました。

検察官の主張:起訴前に被告人の精神鑑定を行ったE医師の見解に基づき、自閉スペクトラム症が本件犯行に与えた影響は限定的であり、被告人は完全責任能力を有していたと主張しました。

弁護人の主張:E医師の見解の信用性自体は積極的に争わないものの、被告人は犯行当時、自閉スペクトラム症の影響により心神耗弱の状態にあったと主張しました。

裁判所の判断ー自閉スペクトラム症の影響と行動制御能力ー

 裁判所は、E医師の見解を前提に、被告人の責任能力について慎重に検討しました。

 まず、裁判所は、被告人が常軌を逸した行動(インターネット上での執拗な罵倒投稿、アカウント停止後の繰り返し取得、病的なこだわりの強さ、物事の修正困難さ、コミュニケーション能力の不足など)をとったことについて、自閉スペクトラム症の特徴的な症状が影響していたことを認めました。

 しかし、E医師は、「自閉スペクトラム症は攻撃性を特徴とするものではない」と指摘しています。そして、被告人が被害者の殺害を決意し、攻撃に及んだことについては、被告人自身の性格や人格によるところが大きいという見解を示しました。

 確かに、被告人は本件以前に暴力沙汰を起こしたことはなかったものの、E医師は、被告人がインターネット上で他人を罵倒するなどの攻撃的な言動を繰り返していた点を挙げ、これは「被告人本来の性格の一面が表れたもの」であり、本件犯行もその延長線上にあると説明しました。

さらに、裁判所は、被告人の犯行前後の行動に注目しました。

 犯行に及ぶ直前、被告人が被害者の様子を見て殺害を躊躇したことが認められた点。犯行後、被告人が自ら交番に出頭し、警察に自首した点。 これらの行動から、被告人は犯行時に「明瞭な違法性の認識の下で行動していた」と判断されました。

 また、犯行現場の下見を行うなど綿密に計画し、現場到着後も直ちに犯行に及ばず、被害者の勉強会の状況を見て殺害の機会をうかがうなど、その場の状況に応じて冷静に行動できていたことも指摘されました。E医師も、被告人が「やむにやまれず犯行を行ったわけではない」ことや、「自分の意思で犯行を行ったという感覚を損なうものではなかった」と説明しており、これらが「被告人が自らの行動をコントロールできていたことを示す」ものと判断されました。

 結論として、裁判所は、自閉スペクトラム症の影響が本件犯行に全くなかったとはいえないものの、被告人の善悪の判断能力や行動制御能力が著しく低下していたという疑いは生じないとし、被告人に完全責任能力があったことを十分に認定できると判断しました。

判決結果と量刑の理由ー極めて計画的かつ身勝手な犯行ー

 上記の判断に基づき、裁判所は被告人に対し、以下の判決を言い渡しました。

主文:被告人を懲役18年に処する。

未決勾留日数中240日をその刑に算入する。

福岡地方検察庁で保管中のレンジャーナイフ1本を没収する。

 この量刑に至る主な理由は以下の通りです。

犯行態様の悪質性

 被告人は、犯行現場の下見や予行演習を行うなど、綿密に犯行準備を重ねました。

 そして、逃げようとする被害者を追いかけ、ナイフで執拗に攻撃し、頸部や胸部など30か所以上に刺し傷、切り傷を負わせて失血死させました。

 これらは、「非常に強固な殺意に基づく計画性の高い犯行」であり、刑を決める上で特に重視すべき事情とされました。

動機の身勝手さと理不尽さ

 被害者A氏は、被告人のインターネット上での迷惑行為をウェブサイト運営会社に通報したに過ぎません。

 それに対し、被告人が「集団リンチ」をしているなどとして一方的な殺意を抱き、現実の殺害に及んだことは、**客観的に見て「身勝手で理不尽」**と強く非難されました。

自閉スペクトラム症の影響への考慮の限界

 自閉スペクトラム症が犯行に影響したことは否定できないものの、殺害を決意したこと自体は被告人の性格や人格によるところが大きいため、精神障害の影響について被告人に有利に考慮するにも限度があるとされました。

同種事案との比較

 凶器を使用した計画的な殺人事件で、被告人に量刑上特に考慮すべき前科がなく、怨恨を動機とする同種事案と比較して、**本件は「重い部類に属する」**と判断されました。

被告人の反省状況と遺族の感情

 被告人は自首によって捜査が迅速に行われた側面は認められるものの、強く反省しているとは見えず、人の死に対する考えが深まっていないように思われるとされました。

 また、被害者遺族らに対して十分な謝罪の言葉を述べることができておらず、遺族は法廷で深い悲しみと被告人に対する「厳しい処罰感情」を表明しました。これらの事情は、被告人の刑を決める上で軽視できないとされました。

 これらの事情を総合的に考慮した結果、被告人に懲役18年という刑が相当であると判断されました。

終わりに

 福岡IT講師殺害事件は、インターネット上でのトラブルが、いかに現実世界での取り返しのつかない悲劇へと発展しうるかを示す、極めて重い教訓を私たちに与えました。被告人の一方的な思い込みと、それに基づく冷徹な計画実行は、その責任能力が完全に認められ、厳しい判決が下される結果となりました。

 この事件を通じて、デジタル空間におけるコミュニケーションのあり方、そして精神的な特性が絡む事件の複雑さについて、改めて深く考えるきっかけとなるでしょう。

出典

平成30(わ)1145  建造物侵入,殺人,銃砲刀剣類所持等取締法違反 令和元年11月20日  福岡地方裁判所

By pl

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です